〜チャイナタウン歴史散歩〜
クレタ・アヤ地区編

ジャマエ・モスク スミス・ストリート スリ・マリアンマン・テンプル
クレタ・アヤ地区は、チャイナタウンの中心で、チャイナタウンそのものといっても差し支えないエリアです。チャイナタウンを語るとき、クレタ・アヤを抜きにすることは出来ません。それでは、歴史の痕跡と人々の生活の息吹を求めて、クレタ・アヤに行ってみましょう!場所は「チャイナタウン・ストリートマップ」のピンクの地区をご覧ください。


こ の 項 の 目 次 で す!

クレタ・アヤの歴史
クロスストリートからサウスブリッジロードへ
サウスブリッジロードからモスクストリートに入る
ニューブリッジロードを見てみましょう
パゴダ・ストリート
おみやげ街トレンガヌ・ストリート
テンプル・ストリートを歩く
スリ・マリアンマン・テンプル
再びサウスブリッジロードを見てみましょう
クレタ・アヤで最も雰囲気がいいスミス・ストリート
サゴ・ストリートとサゴ・レーンのこと
「びっくり箱」チャイナタウン・コンプレックスへ
ニューブリッジセンターも意外に面白いよ
クレタ・アヤ・コミュニティーセンター付近を歩く
ニューブリッジロードの向かい側へ
マジェスティック・シアターのこと
ピープルズ・パークセンターのこと
裕華ショッピングセンターのこと


クレタ・アヤの歴史

モスクストリートの風景
モスクストリートの風景
チャイナタウンで最も早く開けたのは、テロック・アヤの項で書いたように、今のテロック・アヤ・ストリート付近ですが、すでにテロック・アヤ地区で人々が商売をはじめていた19世紀はじめ、クレタ・アヤはマングローブ湿地帯でした。マングローブ湿地帯と街を分けていた通りが、今のサウスブリッジロード(橋南路)です。シンガポールの市街はシンガポール川の南側は、中国人が多く、古くからの街であることから「大坡」、北側は新しい街であることから「小坡」と呼ぶことがありますが、サウスブリッジロードはその歴史ある「大坡」の「大馬路」と呼ばれる中心的な大通りだったのです。

多くの中国からの移民で人口が急増するに従い、チャイナタウンは拡大していきます。南側の海の埋め立てに先立ち、マングローブ湿地帯は人の住むところとして、整備されていきます。そして、1840年代最初には「大坡」第二の大通りであるニューブリッジロード(新橋路)が出来、市街が大きく拡大していったのです。次第にニューブリッジロードは「大坡二馬路」と呼ばれるようになり、チャイナタウン第二の大通りとなっていったわけです。この両方の大通りに挟まれた地区がクレタ・アヤですが、こうした歴史を見ると、チャイナタウンの中でも古いエリアであることがよくわかりますよね。

ショップハウスのアーケード
ショップハウスのアーケード
こうして発展してきたクレタ・アヤは、ビジネス街であったテロック・アヤに対して、生活に密着した商売をする人が多く集まり、生活臭のただよういわば商店街でした。人が多いことからチャイニーズオペラなどの娯楽も多く、中国系の人々の生活の中心であるシンガポールの繁華街であったわけです。いまでこそ、シンガポールの繁華街はと聞かれると、「オーチャード」との答えが返ってきますが、昔はチャイナタウンであり、その中心がクレタ・アヤであったのでしょうね。

シンガポールの華人が出身地別に住み分けを行っており、さらに出身地別に一定の職業に就く傾向があったことは、「シンガポールうまいもの探訪」の中でも何度か書いているのですが、クレタ・アヤは中国系の中でも広東人の多く住んだ場所でした。そして、広東人は飲食業、建築・木工業、貴金属店経営、籐細工販売、金属・機械関係、時計修理業などにつく傾向があったといいますが、これらの商売はいずれも小資本で経営可能な職人的な分野であり、個人経営の成り立ちやすい職業ですから、ショップハウスに住んでその場で商売をするということが可能だったわけですね。そして、この職住一体の状況がクレタ・アヤを生活臭のただよう街にしていた一番の理由だったのでしょう。

ニューブリッジロードのお店
ニューブリッジロードのお店
戦後になっても、クレタ・アヤの各通りには衣服、本、果物や野菜を売る露天商や麺や粥を売る屋台が建ち並ぶ光景が見られたといい、こうした光景が残されているいろいろな写真からもうかがうことが出来るのですが、一方で、人口の急増もあって、街全体がスラム化し、不衛生なショップハウスの中に大勢の人たちがひしめき合って住むようになっていたといいます。そして、政府による大規模な再開発が始まります。まず、ショップハウスをつぶし、人と店を分離して、それぞれをまとめて、新しく建設したHDB住宅やショッピングセンターの中に入れていったのです。しかし、観光面等の配慮からショップハウスの保存がさけばれるようになると、政府は方針を転換し、ショップハウスの外観をそのまま残しつつ、改修、改装し、保存を行う方法をとるようになります。そして、現在、クレタ・アヤ地区は、現在、その歴史的保存の作業の最終段階にあります。さて、それでは、そのクレタ・アヤの歴史の痕跡をたどり、街を歩いてみましょう。


クロスストリートからサウスブリッジロードへ

クロスストリートとニューブリッジロード角のショップハウス
クロスストリートとニューブリッジロード角のショップハウス
クレタアヤ地区のスタート地点といっても、別に決まりはないのですが、ニュー・ブリッジ・ロードが基幹道路であることから、とりあえずニューブリッジロードとクロスストリートの交差点からスタートすることにしましょう。この交差点は、青い背の高いビルディングのチャイナタウンポイントが目印になります。市内から来て、チャイナタウンポイントの前でバスを降りると、クロスストリートをはさんで向かいに、ピンクと白色のショップハウスが見えます。4階建ての建物で、クロスストリートに沿って伸びるこのショップハウスは、結構目を引きます。(地図・ピンクの地区@)

特徴としては、壁の面に凹凸が少なく、平坦な窓が続いていることで、チャイナタウンのショップハウスの中でも、非常にめずらしい形態であるといえます。ヨーロッパ風の雰囲気を感じてしまうのですが、それもそのはず、この建物は1930年代にイギリス植民地政府の建築家が設計したものなんです。そして、この建築家、クラークキーの下流にかかるコールマン・ブリッジのそばにあるヒルストリート・ビルディングという白い建物も設計しているんですねえ。二つの建物を比べてみると、非常によく似ています。ヒルストリートビルディングの方は、現在、情報芸術省の検閲局が入っているのですが、バスでチャイナタウンに入ってくる際には、右手に見えるはずですので、注意して見ておき、特徴を比べてみると面白いでしょう。

壁にはこんなほこらをよくみかけます
壁にはこんなほこらをよくみかけます
この建物、2階以上は今でも住宅として使われているようで、洗濯物が干してあったり、週末になるとマージャンの音が聞こえてきたりします。一方、1階はお店やコーヒーショップが入っています。交差点に面した「泰春園餐室」などは典型的なコーヒーショップで、昼間はおじちゃんたちがビールを飲んでだべるという、シンガポールの昔ならではの光景が見られます。1階はショップハウス群の典型的な構造であるアーケード式になっているのですが、アーケード方式は、雨もしのげる賢い建築なんですね。アーケードには柱があるわけですが、この柱はお店の広告として利用されています。今でこそ、派手な柱広告は少なくなっていますが、昔の写真には白地の柱に朱の太字でお店の名前が書かれている光景がよく見られます。このあたりにも、中国人の商売上手が感じられますよね。

アーケードをのんびり歩いてみると、いろいろなことに気がつきます。歩き始めるとすぐに、柱に赤く小さなほこらのようなものがかけてあるのが目に付くと思います。これは、各家庭レベルの神棚のようなもので、いろいろな神様がまつってあります。興味深いのは、こうしたほこらに毎日お供え物をし、丁寧に線香を上げ、お参りが続けられていることで、小さなことながら、中国系シンガポーリアンの信仰の熱心さを感じることが出来ます。

お店はいろいろな種類があるのですが、この並びは主に雑貨、靴屋、薬屋、医者などが入っています。中でも面白いのが、2階より上に上がっていく階段の下にある小さなスペースを利用したお店で、日本でいう一坪商売みたいな感じなんです。おそらく、昔からこうして商売をしているのだと思いますが、こんな小さな場所でも商売をしてしまう中国人のパワーを感じずにいられませんよね。


サウスブリッジロードからモスクストリートに入る

天成金舗
サウスブリッジロードの天成金舗
クロスストリートからサウスブリッジロードに入ると、交差点をはさんで向こう側にアンシャン・ヒル地区の説明の時に書いたどろぼう市場が見えますが、ここでは、これを横目に見ながら右折し、モスクストリートへと向かいます。途中、サウスブリッジロードの向かい側には金のお店「天成金舗」が見えます。建物に1937年の年号が見えますが、この付近の建物には、この時代の建物が多く見られます。この金のお店というのは、シンガポールに限らず、東南アジアのチャイナタウンでは非常によく見かけます。つい先日も、東マレーシア・サラワク州のクチンに行ってきたのですが、やはり中国系の人の商業地区には金のお店がずらり並んでいて壮観でした。中国系は金自体も好きな民族ですが、やはりステータスシンボルになるんでしょうかねえ。

ジャマエ・モスク
ジャマエ・モスク
さて、次にサウスブリッジロードからニューブリッジロードに向かう通りが「モスクストリート」です。通りに入る交差点を少し進むと、左右にウエディングケーキのような塔を持つ古めかしい建物が見えてくると思いますが、ここが「ジャマエ・モスク」で、この通りの名前はこのモスクにちなんでつけられているんです。モスクストリートに入る前に、ジャマエ・モスク(地図・ピンクの地区A)のお話をすることにしましょう。

このモスク、見ると大変地味な建物で、つい見落としそうでさえあるのですが、大変由緒あるモスクで、シンガポールで文化財となっている5つのモスクの中でも最古のモスクです。最初の建物は1826年から27年にかけて建てられ、すぐに改修が加えられ、最終的に1835年に完成しています。現在のモスクは、その改修後の状態でそのまま残っているのです。モスクの建設に関わったのは、インドのコロマンデル海岸地方出身のタミール人イスラム教徒であるチュリア人たちであり、アンサー・サヒブという商人のリーダーシップのもとにつくられたと伝えられています。チュリア人たちは、シンガポールでも最も初期のインド移民であり、テロック・アヤ・ストリートのナゴール・ダルガー寺院やアル・アブラー・モスクの建設も彼らの手によって建てられたといいます。その意味では、インド系イスラムのモスクといえるわけですが、現在ではマレー系の人たちもよく見かけることから、必ずしもインド系のモスクとはいえないようですね。

モスクストリートのショップハウス
モスクストリートのショップハウス
さて、ジャマエ・モスクを見たら、次にモスクストリートに進んでみましょう。この通り、再開発もほぼ終わり、ぼつぼつ新しい店なども出来始めているのですが、クレタ・アヤの再開発地区の中では、比較的人のにおいのある場所といえます。この通りに入って目に付くのはショップハウスです。リノベーションも終わり、きれいになっているショップハウスのデコレーションの中でも、派手な柱の装飾が目に付きます。てっぺんが三角形になった柱は、ペラナカン風とも少し違った、どちらかというとヨーロッパの影響を感じさせます。1階のお店を正面から見ると、正面右手に階段の入り口のある建物が多いのですが、その分、間口が広いのでしょうね。ショップハウスは間口が狭いものですが、この通りのショップハウスは比較的広いようです。

この通りは、伝統的に客家(ハッカ)人の居住区として知られていました。客家人たちは、「當店」と呼ばれる質店、薬屋、靴店、貴金属店、医者等が多かったといいますが、今でもこの通りは漢方薬を売るお店が残っています。ちなみに、上で書いたクロスストリート沿い、つまりこの通りの反対側には靴屋、医者、薬屋などが多くありますから、この付近も客家の居住区の名残があるのかもしれませんね。さらに、この通りは、現在は食べ物屋が多くある通りでもあります。ここのスチームボートや潮州粥あたりはシンガポールでも昔から有名ですし、バクテーに、ヨントーフー、その他いろいろな食事が楽しめると思います。
この通りのことでもうひとつ。この通りは、ショップハウスの2階より上に、依然、人が多く住んでいます。歩いてみると、洗濯物が物干し竿にかけられて窓からつきだしてあるおなじみの光景がみられるほか、休みにはマージャンの音もよく聞こえますよ。


ニューブリッジロードを見てみましょう

美珍香
バーベキューポークの美珍香
モスクストリートを進んでいくと、ニューブリッジロードに突き当たります。ここから、左に折れて次なるパゴダストリートに向かうのですが、その前に、ニューブリッジロード沿いのお店をのぞいてみましょう。まず、最初は角のところにあるバーベキュー・ポークのお店「美珍香」です。バーベキュー・ポークといえば、シンガポールに限らず、チャイナタウンの風物詩ともいえるものですが、あの煙のにおいを嗅ぐと、チャイナタウンだなあという気にさせられます。ここの「美珍香」はシンガポールのあちこちにたくさんの支店を持っているのですが、ここのお店ではどういうわけかインド系のおじさんがよくいて、肉を焼いているんです。奇妙な光景ではあります。

そのバーベキュー・ポーク、干した肉を焼いたもので、シンガポールでは、旧正月の頃によく食べるのですが、日常的にもおみやげに使ったり、家で瓶に入れてつまんで食べるというようなことをするそうです。味の方は、少し甘めで、油が多いんですが、私は結構好きですねえ。2枚100グラムくらいから買うことが出来るので、歩きながら食べてみるのも一興です。観光の場合には、ホテルへ持って帰って、ビールのつまみにするというのもいいかもしれませんね。

漢方薬屋さんの店先
漢方薬屋さんの店先
ところで、このバーベキューポーク、シンガポーリアンたちは旧正月になると食べると書いたのですが、すごい量をバカ食いする人たちが多いようで、今年の旧正月に、以前の職場のローカルスタッフの女の子が、「一度に1キロも食べてしまった」などといっていましたし、妻の友人のだんなさんも旧正月にはそのくらい食べるというんです。私などは、50グラムの食べればまあまあ、100グラムで腹一杯と思っているのに、1キロ何てねえ。いやいや、恐れ入りますな。

さて、パゴダストリートまでの間、ニューブリッジロードを歩いてみましょう。角を曲がってすぐにスーパーというか雑貨というか、何でも屋の「Pマート」が現れます。まあ、何ということはないのですが、ちょっと入ってシンガポールの普通の人たちの生活を垣間見てみてはいかがでしょうか。値段比べをしてみたりするのも面白いですよ。意外にシンガポールの物価水準も、ものの量、質も日本とさほど変わりがないことがわかると思います。この並びにある漢方薬の「泰山薬行」は店先の乾物に注目。鮑やなまこ、タツノオトシゴの干したものが並んでいます。バーベキューポークの「林志源」の隣が、肉まん系統のパオを売ってある「PAU DIAN」。チェーン店で、シンガポールではよく見かけるお店ですが、これもつまんで食べてみるといいですよ。


パゴダ・ストリート

パゴダストリートの風景
パゴダストリートの風景
次の角を左に曲がると、パゴダストリートです。この通りはサウスブリッジロードとの角に位置するヒンズー寺院「スリ・マリアンマン・テンプル」の入り口上のゴープラムがパゴダ(塔)の積み上げであることにちなんでつけられています。昔は、テーラーや写真屋、中古のがらくたを扱うお店があったといいます。

長らくリノベーション工事が行われていましたが、ようやく道路をレンガばりにしたうえ、全体を歩行者天国にし、通りの左右に露店が並ぶ賑やかな通りに生まれ変えようという工事が終了し、少しずつですが露店が出て、昔のチャイナタウンに戻そうという動きが進んできました。数年後には地下鉄(MRT)のチャイナタウン駅が、ニューブリッジロードとの角付近に出来る予定で、チャイナタウンの中心として生まれ変わりそうなエリアでもあります。

クーリー館の跡
唯一残るクーリー館の跡
この通りはこのように今のところは素通りしてしまいそうなのですが、一つだけ見ておくべきところがあります。スリ・マリアンマン寺院の裏手の並びにあたるショップハウスのうち、「37 PAGODA STREET」の建物です。(地図・ピンクの地区B)再開発できれいに塗り直してはあるものの、他のショップハウスに比べて小さくて地味な感じがよくわかると思いますが、これはチャイナタウンに現存する昔の中国人労働者「苦力(クーリー)」たちのすみかだった建物なんです。クーリーたちは、中国からやってきた肉体労働者たちで、小さいすみかに何十人も一緒に寝泊まりをしていたといいます。セントーサ島のイメージ・オブ・シンガポールにクーリー館の展示があって、暗く不衛生な建物の中に、大勢のクーリーたちがいた様子をしのぶことが出来ますが、小さく惨めだったであろう改修前の小さな建物を想像すると、はなばなしい成功をおさめた中国人たちの一方で、奴隷同然に働いていたクーリーたちの悲哀を感じることが出来るような気がします。

クレタ・アヤ編第2部に続きます。


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