テロック・アヤ地区はシンガポールでも歴史的に意味の深い寺院が多く建ち並ぶ伝統ある地域です。昔、ラッフルズがシンガポールを手中に収め、それを聞きつけた中国人やインド人たちがビジネスチャンスや職を求めて上陸したのが、ここテロックアヤでした。その意味で、シンガポール開発の歴史が始まった場所といっても過言ではありません。それでは、この歴史的な地域をご案内します。場所は「チャイナタウン・ストリートマップ」のグリーンの地区をご覧ください。
テロック・アヤの歴史
テロック・アヤ地区の中心は、テロック・アヤ・ストリートです。小さく静かな道ですが、この通りはその昔は海岸だったのです。小さいシンガポールの宿命で、19世紀の中頃からどんどん埋め立てが進み、今では海岸線は遥か南に遠ざかってしまっていますが、この通りこそオリジナルの海岸線だったのです。ラッフルズ・ホテルのアーケードの3階にラッフルズ・ホテル・ミュージアムというところがありますが、ここの入り口の右側に貼ってある昔の写真と、入り口正面のパネルの裏側にある昔の絵を見ると、海岸線に中国寺院やモスクが建っている様子がわかり、往事をしのぶことができます。当時は中国本土から流入する人たちの数が大変多く、ラッフルズが上陸した当時120人のマレー人と30人の中国人しかいなかったというシンガポールは、その後20年足らずの間に1万8千人の街になっていたといいます。その大半がここチャイナタウンに住んでいたわけですから、当然土地が足らなくなるわけです。ここから海岸線までの距離、これがシンガポール発展の歴史そのものなんですね。
テロック・アヤ・ストリートからラッフルズプレースを望むテロック・アヤ地区は、当時、商業の中心地でした。1階がお店で2階が住居というショップハウスが最初に建ちはじめたのもこの付近からでした。当時、この付近での「ビジネスマン」たちは、各国から入ってくる商品の仲介を行い、手数料としてその商品の価格の2%をとったことから、テロック・アヤ地区は「98%の商業センター」と呼ばれたそうです。中継貿易の都市シンガポールのまさに中心であったことを示すエピソードですよね。
商売繁盛でテロック・アヤにはどんどん人が流れ込むようになり、ついには中国から連れてこられた奴隷たちの売り買いまで行われるようになり、ショップハウスも奴隷のすみかとなるわ、秘密結社はできるわでいよいよ超過密状況になってきたことから、1880年頃からいよいよイギリス植民地政府による海の埋め立てが始まります。今のビジネス街の中心として知られるシェントンウエイやロビンソンロード、アンソンロードなどができるのはこの頃のことです。
それでも20世紀に入ると、土地が足らなくなってきて、人々は住居だけを遠く離れたところに構えるようになり、オーチャードロードやブキ・ティマ、カトンなどに住んで、お店だけをテロック・アヤに出すという形に変わってきます。その後もビジネスの中心地であり続けたことが、今のシェントンウエイ付近をビジネス街にしている理由なんですね。
テロック・アヤ地区の寺院を巡る!! シアンホッケン寺院 (地図・グリーンの地区D)
テロック・アヤ地区は由緒ある寺院の多いエリアですが、中でも最も有名なのがシアン・ホッケン寺院(Thian Hock Keng Temple)です。現在、大改修の真っ最中で、少なくとも99年いっぱいは工事が続く予定です。改修前には壊して新築しようという議論まであったようなのですが、結局改修ということに落ち着いたそうです。何しろシンガポールの文化財にも指定されている由緒あるところですし、チャイナタウンの目玉の一つでもあるわけで、残されるようになったのはよかったと思いますね。
工事中のシアンホッケン寺院外観ただ、改修工事の様子を見ると、色を全て塗り替え、けばけばしいきれいな寺院になってしまいそうな感じです。日本人からすると、すすけた感じの古い寺院の方が魅力があるのですが、このあたりが感覚の違いかもしれません。まあ、中国寺院は元来、ケバいものではありますけどね。
改修工事前はツアーの市内観光のコースに必ずといっていいほど組み込まれ、朝から多くの観光客が訪れる場所で、中にジュースの自動販売機まであったくらいなのですが、一方で、観光客ばかりではなく、熱心にお参りするシンガポーリアンの姿がたえない場所でもありました。当時の様子のレポートをそのまま掲載します。
シアン・ホッケン寺院はシンガポール最古の中国寺院です。現在の寺院ができたのは1839年から1842年の間のことですが、実際にはその前の1821年、つまりラッフルズがシンガポールに上陸して2年後に既に小さな廟が建てられており、この場所自体は非常に古いということになります。名前が示すとおり、ここはもともと福建人のお寺です。当時シンガポールに中国から渡ってきた人たちの半分程度は福建人だったそうなのですが、特にこの寺院のまわりには多く住んでいたといいます。
ここの寺院は道教寺院であるといわれますが、元来中国人の信仰は多種多様な神仏を取り込んでいることから、必ずしも道教寺院とはいえない面があります。実際に、この寺院では数多くの神仏が祀られています。このうちで、主神は「媽祖」といわれる神様で、別名を「天后聖母」といい、寺院の正面にはいると、赤い幕に右から「天后聖母」と書かれているので、確認することができます。セントーサ島のケーブルカーを降りて正面の「Image of Singapore」の奥のシンガポールの文化館のようなコーナーに行くと、この「媽祖」の説明が書いてあるのですが、伝説の女神で、船乗りの娘だった「媽祖」がある日、父親の船が嵐で海に沈んでおぼれているのを夢に見て、水の精になって海に入り、父親を助けたという言い伝えがあることから、漁師や船乗りの守護神として知られています。ここに安置されている媽祖像は1840年に中国から運ばれたものだそうです。当時、新天地を求めてやってきた中国の人たちが本土から大切に運んできた様子を想像すると、何ともいえない感慨があります。改修工事中は、道を挟んで向かいにある小さな仮の建物の中に安置されています。ちなみに、ここの建物の屋根の装飾や龍の彫刻などの素材も中国から運び込まれたものだそうです。
正面中央の「媽祖」
他の神様も見てみましょう。「媽祖」の右隣を見ると、朱の幕に「関聖帝君」と書かれています。これは三国志の英雄の関羽なんです。シンガポールの寺院の中でもポピュラーな神様で、戦争、富そして文学の守護神として祀られています。左隣は「保生大帝」、これもシンガポールではポピュラーな神様です。この正面の3体の神様を見るときに、注目するといいのが、その前に安置されている2体の木像です。この口のところを見ると、何やらヤニがとけたような感じになっていますが、これは昔、アヘンを口に押しつけた跡なんだそうです。戦後まもなくまで、シンガポールの、しかもチャイナタウン付近はアヘンがはびこっていましたから、こういうこともあるわけですよねえ。神様にすわせてやろうという「仏ごころ」だったんでしょうか。同じようなのは、左手の壁側にも安置されている神様にもみられます。
寺院に入ったところ
裏手の建物に行くと、今度は仏様があらわれます。中央が「観音仏祖」で、我々日本人にもなじみが深いですよね。正面の建物の真裏にあるのは孔子です。こういうふうに様々な神様が同時に安置され、信仰されているのが、シンガポールの寺院の特徴でもあります。とにかく人知を越えた力を持つものに対しては、種類をかまわず信仰するという姿勢で、日本人に共通したものを感じてしまいます。
孔子廟こうして、いろいろ感心しながらいつも見て歩くのですが、そうしている間も文字通り老若男女のシンガポーリアンが熱心にお参りをしています。赤い紙と線香が中で買えるのですが、このうち、赤い紙はお金の代わりに燃やして、天に捧げるために用いられています。また、線香はお参りのときに使うわけですが、方法が日本とは違って、両手で握って、上下に振ってお参りし、その後に線香を上げるという順序です。主神の「媽祖」の前ではひざまづいてお参りするので、膝をおくためのクッションがおいてあります。
熱心な信仰といえば、寺院の後ろ側の建物の「観音仏祖」の左隣にある「月亮媽」は縁結びの神様として知られるのですが、ここには結婚しない娘を心配する母親がよく来てお参りをするそうです。そういえば、よくご婦人を見かけます。「孔子」も同じで、こっちは学問の神様としても祀られているので、親や子供本人が成績の向上を祈願によく来るのです。先日、シンガポールの共通学力テストのOレベル(いわば中学卒程度試験)の成績発表があった直後に行ったときに、お礼参りだろうと思われる子供たちを多く見かけました。
こうして、みんなが熱心にお参りしているわけですが、お祈りが絶えないということは、線香の煙も絶えないということなわけですが、そのため、寺院の中はすすで真っ黒になっています。寺院の上を見てみるとよくわかるのですが、この黒いすすけた天井も元々は入り口の天井みたいに赤く塗ってあったんです。左側の天井に吊してある大太鼓も真っ黒にすすけています。でも、これがシンガポーリアンたちの熱心さを象徴しているのですね。
正面の門神ところで、像の神様ではないのですが、注目すべきは正面の門や左右の門に描かれた神様の絵です。これは「門神」といって、門の監視を行う門番のような神様だそうです。つい、見落としてしまいそうになりますが、金で描かれた中国風の神様はじっと見るとなかなかいいですよ。それと、入り口といえば、入り口の敷居が高くなっていることに注目してみてください。これには理由があるのです。諸説あるらしいのですが、よく聞くのは、昔、テロックアヤが海岸線だった頃、海の水が入ってくるのを防ぐために作られたという説と、もう一つは高い敷居は跨ごうとすると自然に頭が下がるので、神様のいるところに入っていくにはこうして頭を下げさせるのがいいという説です。真偽のほどはよくわかりませんが、両方ともあり得て不思議のない説明ですね。ちなみに、この敷居は踏んじゃダメなので注意しましょう。
アル・アブラー・モスクとナゴール・ダルガー寺院
チャイナタウンの、しかも昔、中国系の人たちが密集していた地域に、どうしてイスラムのモスクがあるんだろうと思ってしまうのが、テロック・アヤ・ストリートの2つのモスクです。テロック・アヤ・ストリートとブーン・タット・ストリートの角にあるのが、ナゴール・ダルガー寺院(Nagor Durga Shrine)(地図・グリーンの地区E)、タンジョン・パガーの駅に近い方にあるのが、アル・アブラー・モスク(地図・グリーンの地区C)です。
ナゴール・ダルガー寺院私たちも、なぜ、チャイナタウンの、しかも最も歴史のあるエリアにモスクがあるのか、不思議に思っていました。両方とももともとインド系イスラム教徒の建築したものだそうです。はじめは、昔、ラッフルズが民族ごとに住み分けをする地区を定めた際に、インド人の居住区がここにあったのだろうと推測していたのですが、調べてみると当時のインド人居住区は、クラークキーの対岸で、昨年オープンしたリバーサイド・ポイント付近にあったとされ、そうでもないようです。結局のところ、ラッフルズ上陸後、各地から流入してきた人たちのうちで、インド人の力も結構大きく、そのため主要な地域を確保できたのだと考えるのが適当なようです。
さて、ナゴール・ダルガー寺院の方は、1828年から1830年の間に南インドのイスラム教徒によって建てられたイスラム教の寺院です。土地はイギリス植民地政府から与えられたものだといわれます。正面の左右に見られるギリシャ風の円形のふくらみのある柱や、左右の端からそびえる多重塔のような柱(「ウエディングケーキみたいなと言われます」)が特徴です。ここの建物の面白いところは、中に入ると、ヒンズー教のようなカラフルな電飾が見られることで、イスラム教というのに光を重んじるヒンズー教の影響が色濃くあるんですね。それだけじゃなくて、インドのお香のにおいが立ちこめています。やはり、出身地の風土を反映しているのだと思います。
モスクとは名付けられてはいないのですが、この建物は結局のところモスクですから、もちろん礼拝が主な目的なわけですが、昔から南インド出身のイスラム教徒のコミュニティーセンターをしての機能も果たしてきているのだそうです。中に入ってみると、モスクでの行事の際の写真なんかが掲示板に貼ってあったりして、なるほどと思わせます。それと、「コミュニティーセンター」だけあって、外部に対して開放的でフレンドリーなんです。イスラム教のモスクというのは、一般に規律が厳しくて、外部の人間に対しても、アラブストリートのサルタンモスクのように肌を露出した服はダメとかいう決まりがあるところが多いのですが、ここはそういうことがありません。観光客もウエルカムで、写真も撮っていいし、入り口で飲みものまで売っています。
ここの入り口にいるおじさんもフレンドリーで、気楽に話ができます。以前に訪れたときに、ここのおじさん、一番奥の電飾のさらに中まで入って、壁の絵の意味なんかを丁寧に説明してくれたことがあります。祭壇の前の鉢に水があるのですが、聖水であると教えてくれて、コップにくんで飲んでみろと私たちに勧めます。おそるおそるのんでみると、何ということはない水なのですが、おじさん、「どうだ、パワーが入ってきたような気がするだろう」と自慢げ。なんとなく、毛細血管の先まで、ありがたみが浸透したような気にはなります。
ナゴール・ダルガー寺院の中の電飾さらにおじさん、中央の通路の右側の壁にある座禅を組んだ写真を指さし、「これは若い頃のオレだ!」と教えてくれました。何と本人だったんですねえ。昔、インドにいる頃に修行したときの写真だそうです。となりにある爺さんの写真はその先祖だということ。その後で、おじさんがくれた名刺を見て謎が解けました。おじさんは「ナゴールさん」というんですねえ。この寺院の「ナゴール・ドゥルガー」はどうもここの祭司をしている一家の名前に関係があるようです。
ところがおじさん、「ナゴール」と、日本語の「ナゴヤ」を同じだと思っていて、しきりに「日本のナゴヤと同じだ」と言っています。とにかく、ナゴヤだナゴヤだというので、こっちも熱意にほだされて、「そうだねえ、同じだねえ」と調子を合わせてやります。おじさん、大喜び!
しかし、話しているうちに、自分が子どもの頃は、このあたりは日本軍の兵隊の集まる場所がたくさんあったんだというような話になりました。これは初耳でしたが、場所的に不思議はありません。戦争中、日本軍はインドの人を比較的優遇しましたから、きっとあまりつらい目にはあっていないのだろうなあと思いましたが、こんなところにも「日本による占領」という歴史が顔を出すのだなあと思いました。
とこんなこともあるわけですが、中に入る際には、靴を脱いで入り、壁に掛かっている昔の写真をじっくり見てみましょう。テロック・アヤ・ストリートの昔の雰囲気が良くわかります。それと、中でいろいろな集会の写真を見ているとわかるのですが、このモスクは確かに南インド系のモスクですが、マレー系の人も多く利用しているようです。ところで、このモスク、どういうわけか入り口の付近にやたらと鳩がいるのです。「落とし物」には注意しましょう。
さて、テロック・アヤのもう一つのモスク、アル・アブラー・モスクは地味ながら正統派のイスラム教モスクといった感じです。こちらは、1827年に建てられたモスクで、建築当時は藁葺きの小屋のような建物であったといいます。名前の「アル・アブラー」というのは、インドの言葉で「モスク小屋」を意味するのだそうです。もともと、インド系イスラムの流れをくむモスクなのですが、礼拝をしている人を見ると、いまではマレー系が主力のように見えます。
アル・アブラーモスクこのモスクの建物の特徴は、「シンプルさ」ですが、よく見ると、左右にそびえる柱の内側に同じようにペアになった円形の柱があるのがわかります。これらの柱の上には、小さなタマネギ状の飾りがあるのですが、これがかろうじて「イスラム風」といえるでしょう。大きな柱の方には、月と星のイスラムのシンボルがあります。これは、イスラム教に共通ですが、月の方は新月で「新しい宗教」を表し、星の方は礼拝や断食などのイスラムの5行を表しているということを覚えておくといいと思います。
チャイニーズ・メソディスト教会 (地図・グリーンの地区@) テロック・アヤには、もうひとつキリスト教の教会もあるんです。MRTのタンジョン・パーガー駅からテロック・アヤ・ストリートに入るところに、白い壁に変わった屋根の建物がありますが、これがチャイニーズ・メソディスト教会です。教会自体の設立は、正面の壁に書いてあるように1889年なのですが、建物が完成したのは1924年のことです。教会というと、ついシティホール近くのセント・アンドリュース教会のような尖塔の建物を想像するのですが、ここの建物は屋根がパゴダ風でいかにもチャイナタウンにあるキリスト教会という感じです。
この教会はシアンホッケン寺院とかのように古くはないのですが、意外な歴史があって、日本軍とイギリスとの戦争中、そして日本によるシンガポール占領期間中、この教会は人々の避難所のようにして使用されたのです。もちろん、そういうことになれば日本軍から攻撃を受ける可能性があるわけで、教会の信徒たちが入り口に壁を築き、攻撃に対処すべく補強をしたといいます。入り口近くに30センチほどの飛び出た壁があるのは、その名残だそうです。こんなところに、日本占領時代の悲惨な痕跡があるのですね。
仙祖宮 (地図・グリーンの地区B)
少し地味ですが、アモイストリートのタンジョン・パーガーよりの起点近くにある小さな廟・仙祖宮を紹介しておきましょう。ここの主神は、正面の朱の垂れ幕に書いてあるように「大伯公」なのですが、この神様はマレー半島の華人の中では有名な神様で、開拓者が植民した地域の守護神とされます。中国本土から入ってきた華人にとって、頼りにしたい神様だったことだろうと思います。中に入ると、仏様も祀ってあって、各種の神仏が同時に祀られているのは、ここも同じようですね。
アモイストリートの仙祖宮1867年に創設され、1908年、1937年、1968年と3回の改修を経て今日に至っています。お参りする人が絶えない寺院ですが、左側のフードセンターよりの丘の斜面に小さなほこらがあって、こちらもお参りしている人が多く見られます。小さいですが、寺院らしい寺院といえますね。
ところで、あまり知られていないのですが、この寺院の正面右の小道を裏の方に入っていくと、隣のショップハウスの裏手あたりに急な階段があります。ここは、アンシャン・ヒルからクレタアヤ地区へ向かう近道ですので、ぜひ使ってみてください。99年中に工事で一時通行止めにはなりますが、この工事で使いやすい階段になる予定になっています。
アモイストリートのこと
テロック・アヤ・ストリートの一本北の通りが、アモイストリートです。ここも歴史の古い通りなのですが、現在はショップハウスの改修もほぼ終わり、いろいろな会社の事務所などが多く入っています。閑静な通りですが、ここのショップハウスの1軒にコーヒー豆の商売をしている古びた店があって、いつも通る度にいいコーヒーのにおいがするので、つい立ち止まってしまいます。食べるところもいくつかあります。ちなみにフィッシュ・ビーフンの老舗「瑞記」という店があるのですが、ここのフィッシュビーフンは最悪でした。この付近で何か食べるには、チャイニーズ・メソディスト教会の正面にある「アモイストリート・フードセンター」(地図・グリーンの地区A)に限ります。水準の高いホーカーセンターで、おいしいものが多いですよ。
アモイストリートからラッフルズ・プレースを望む
アモイストリートをクロス・ストリートの方に向かうと、ナゴール・ダルガー寺院の横を通るブーン・タット・ストリートという通りと出会います。ここの角にあるショップハウスは必見です。(地図・グリーンの地区F)古くて崩れかけのような建物なのですが、今やチャイナタウンに残された昔のままの数少ないショップハウスの一つです。これがまた、人が住んでいて、下で商売をやっているんです。
ブーンタットの古いショップハウス床屋、タイヤ屋などがあるのですが、床屋さんの方は、お客さんが来て、髪を切っている風景をよく見かけます。じっと見ていると、昔のチャイナタウンの様子を想像させられます。床屋さんの建物の裏の方をアモイストリートから見ることができるのですが、壁から大木が生えているんです。で、根っこが壁を覆って、すごい光景です。シンガポールでは、ショップハウスに木が生えている様子をよく見かけますが、ショップハウスはレンガづくりなので、木の種子が育ちやすいんですかねえ。それにしても、植物の生命力にはおそれいりますね。それにしても、このショップハウス、おそらく1〜2年中には建て直されるでしょうが、こういう光景は目に焼き付けていきたい感じがします。
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